後から評価されるもの
残暑が厳しい毎日です。体調はとてもよく元気に過ごしています。頭に思い浮かぶのは沖縄の海なのですが、今年は行かないことに決めたことは以前書きました。沖縄に行かなかったのは、新婚旅行でマレーシアに行った年だけだったと記憶していますから、本当に特別なことです。でも今年はそういう年なのでしょう。
何か書こうとすると、コロナの事くらいしか思いつきません、当然のことなのでしょうが。やはり今年はそういう年なのでしょう。
最近のんびり生きていたので、少し活動を再開しようと考えていたところでしたが、自由にならないことが多く、人に気軽に会うこともできません。家でおとなしく過ごすことが多く、ゲームで遊ぶ時間も増えています。やはりそういう年なのです。
年初にある本を読みました。
親族等の関係者が、史実をきちんと拾い出した文献でしたが、明治維新当時の、とある日本人の生活が大変よくイメージできるもので、心に残りました。
その本を読んで考えたこと、多くの実務的な課題を片付けてきたという功績は、目立たない、したがって外部に評価されにくいのかも知れない、なかでもずっと問題とされてきたが、当たり前すぎてそれまでだれも手をつけてこなかった課題を解決した実績などは表にでにくい。
当たり前すぎて、面倒で、故に誰も解決できなかったこと。そこに手をつけただけでも素晴らしいことだと思います。そんな実務的課題は、小さなものの積み重ねで話題性に乏しいので、あえて取り上げることすらなかったりするもの。
私が普段行っている、税理士業務、なかでも経理や会計というバックオフィスの仕事は、小さなことと積み重ねで、時間もかかり、地味で目立たずきついもの、だから、目に見える功績を上げたい人はやりたがらない。それどころかそんな人からは「単純で簡単でしょ」とまで言われたりする。
地味でやりたがらない仕事だから、内容を正確に評価されない(金銭的な評価も含めて)という側面もあるように思います。
また、そんな実務的な仕事が「大切」だなどと発言しようものなら、自分がやらされてしまうかも知れないという防衛反応もあって、なるべく触れないように行動している。
あなたは何をやってきたのか、レガシーになるような目に見える功績など、何もやっていないではないか、と言われた時「あなたに何がわかるか」という強い気持ちをもつべきなのかもしれません。
実務的な課題を多く解決してきた人がいなくなって初めて、彼の功績は評価されたりします。彼がいないとまた元の状態に戻ってしまい、その時皆気が付くのです。
これまで誰も解決できてこなかった課題のほとんどに手を付けて解決しようと努力し、表には出ていないが多くのことを解決してきた実績と、大きなアドバルーンを掲げて「体制」を変えた実績と、どちらも重要、どちらも同様に評価されるべきはず。
彼が経営者になる前の経営者は既存の組織を「ぶっこわす」人でした。それはそれは大変な仕事でした。ただ、白黒はっきりするので、受けは良かった。ぶっ壊した後、安定した組織を作って運用を定着させる仕事をすることになった経営者も同様に大変で、ぶっ壊す人と同様のいやそれ以上のエネルギーを必要としたはず。大変なエネルギーを使ったはず。
ちょっと、空想が過ぎました。
目を転じて、私の場合はどうか。自分のことばかり考えて生きている私には、実績もなく、大そうなことを考える気概も余裕も勢いもありません。穏やかな毎日が、このまま続いてくれたらいいと願うのみです。
今年はそういう年です。
がんばれ日本!