丸亀城

 5月の繁忙期がひと段落しましたので、鹿児島の実家に介護のため帰郷し、その足で香川県丸亀市にある丸亀城を訪問してきました。なぜ丸亀か、ですが、知らない街香川めぐりの一つであり、天守のある丸亀城の方をそうでない高松城より見たいと思った、そんな単純な理由からです。海城である高松城は次回の楽しみとして温存しておきます。
 

 丸亀市には広島から電車で1時間半ほどでつきます。途中、瀬戸大橋の空中を走る車内で、右車窓にいき左に行きを繰り返している観光客は私だけで、少し恥ずかしさを感じながら、オーバーツーリズムなどと言われないよう自制しながら、うろちょろしてしまっている自分を自覚しつつ、絶景に恵まれたひとときとなりました。
 天候も、さわやかでした。

 当初、広島側か大阪側か、どちらに座るか悩みましたが、平日だったせいか、観光客はほとんどおらず、どちらであっても車内を自由に動くことができ、幸運でした。なぜか広島側にみる、夕日に向かう船ぶねの様に、懐かしさのようなものを感じ、時を忘れてしまうほどでした。



 丸亀城はJR丸亀駅から徒歩15分ほどの場所にあります。駅からほぼ道路を直進する場所にあるのですが、それはこの街が、城を囲みほぼ直角に整地され、海と河にかこまれた城郭都市であったことからと、のちほど丸亀市立資料館で理解することとなりました。
 

 


 戦国時代末期、生駒親正によって築城が開始され、その後この地が戦場となったことはなかったようです。生駒親正の名はそれまでほとんど知らなかったのですが、城主はその後、より知らない天草の山崎氏、さらに京極氏と代わりながら築城がすすみ、徳川幕藩体制の時代に完成します。長年この地を象徴する名城として、地域の人に愛され、この地の平和と安定に寄与したようです。
 堀を隔てて見る丸亀城の美しさはなかなかのもので、天守は全国に12ある、現存天守の一つであるようです。何度撮影してもいっしょと思いながらも、iphoneのシャッターを押し続けている自分に気が付きました。

 

  
 大手門から中に入り、見返りの坂を進んでいきます。それまでに訪れた城の坂登りに懲りていたため、トレッキングシューズを用意していたのは正解でした。登城は毎回疲れるもので、今回も例外ではなく、下城する人たちの多くが、後ろ向きに進むほうが楽と言いながら、かかとから歩いていたのが印象深かったです。


  

  
 本丸からみえる煙突やドックは、瀬戸内海の山々や街並みに溶け込んで独特の風景を構成しており、とはいえ違和感はなく、ここでも懐かしい感じがしました。幼少期に過ごした鹿児島県揖宿郡喜入町の石油備蓄基地の景色が、ふと脳裏にうかんだのかも知れません。
 

  

    
 城を見るとき思うのが、武士の誉とは何か、です。
一国一城の主と、象徴的にいいますが、戦国から江戸、そして現在に至るまで、幸いにして平和の象徴として現存し続ける丸亀城は、為政者にとっては、まさに一城の主として、武士の誉を体現できた場であったものと思われます。

 一方、海を隔てた中国地方においては、秀吉の中国攻めに際し、あるいは毛利氏の覇権争いにおいて、籠城戦となった跡が、多く残されています。武士の誉が大切なのか、領民を守ることが大切なのか、そんな究極の選択の中、悲惨な歴史を残す戦もありました。
 戦さ場としての城のあり方の議論は、現在にも通じるものと考えます。兵糧攻めで有名な月山富田城、水攻めで有名な備中高松城などは、落城の際には、武士の誉だけで済んだのかもしれません。しかし、鳥取城の兵糧攻めなどは、容易に武士の誉など許されない、悲惨な戦場となりました。
 軽々に語れば、負け戦をなぜやったのか、領民を飢え死にさせてまで、降伏しなかったのは為政者としてはどうなのかと思ったりします。もっともこの戦には伏線があり、それ以前の播磨の戦いで、秀吉軍は信長公の指示によるものかと思いますが、降伏をゆるさずなで斬りにしてさらした、といったことを行ったことから、降伏もままならずということだったのかもしれません。

 後日必ず鳥取城後に行き、城の中でひたすら負けるのを待つ為政者の気持ちはどんなものなのか、など、考えてみたいと思います。

 ちなみに米子にも立ち寄りましたが、鳥取を代表する風光明媚の地で、魚とお酒がおいしく、落ち着き完成された様が印象深い地でした。鳥取県を批判する気持ちなどさらさらありません。
 


 今回は、平和の象徴である名城を見ることができ、本当に良かったと思います。